皆様、こんにちは。新年はどのようにお過ごしでいらしたでしょうか。コロナ禍も一段落したと思った所、更に変異株の出現にまたもや、懐かしい方々との再会を断念された方もおいでではなかったでしょうか。

さて、今月は下宿で絆を深められた五十嵐さんのご登場です。皆様より、先に原稿を拝読させて頂き、温かい気持ちになりました。では、どうぞ、ご覧下さいませ。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

海老ケ瀬雑感

もう半世紀にもなるのですねぇ。

ワクワク、ドキドキ、希望と好奇心、不安を抱えて海老ケ瀬に入ったのは。受験勉強から解放されて、初めて親元を離れ県短へ、下宿生活へ突入したのは昭和44(1969)年のことでした。当時の大形本町や海老ケ瀬は新発田街道沿いの近郊農家が多く、畑に囲まれた長閑な町だったでしょう。そこに突然、女子短大が建設され若い女子が押し寄せてまだ間もない頃でした。地元の人たちはさぞ戸惑ったことでしょう。急遽、下宿やアパートを建て、初めて大家さんに転身した人も多かったのではないでしょうか。そんななかでの学生生活を懐かしく思い出します。

いまはどうかわかりませんが、あの頃はまだ学生街はなく、本屋さんはもとより喫茶店、食堂、文房具店、古本屋などは皆無。学生が集い、社会、政治、文学、哲学、人生を侃々諤々、議論を戦わせる場もなかったようです。都会では1960~70年代は学生運動が激しかったのですが、新潟は静かなものでした。

現在は、変わったでしょうね。でも新潟中心街に近いからダメかもしれませんが。

さて、下宿ですが、40歳代のお母さんと中3の娘さんが大家さんです。四畳半1間、2食付き1万2千円/月(いまでは信じられない額ですよね)で、昼食は朝食の残り物を自由にと、太っ腹です。助かりました。とにかく周囲は畑。食堂も遊び場もゼロですから。これでは下宿か学内で勉学に励むしかないです。短大は2年間で規定のカリキュラムをこなすためには時間割りはギュー詰め。通常課程だけでもギューギューなのに、さらに教職課程をとったり、被服科などは実習の作品を仕上げたり、かく言う私、英文科生は予習復習をしなければ講義についていけず(不出来な私だけかもしれませんが)と、毎日忙しく過ごしていました。

下宿人は2階に4人、1階に2人。その所属学科は英文科3人、被服科2人、幼児教育科1人。当然、全員女子!加えて小母さんに娘さん。男兄弟のなかで育ち、男子校さながらの高校から、いきなり女子だらけ。怖かったです。萎縮しまくりです。でも初めだけで、徐々になじんできました。その証拠に体重が39キロから44キロへ。

朝食は7時半ころ用意されていて自分でよそって食します。それからが大変。トイレに洗面、各階にありますが、皆が一斉に動くとなると手狭です。順番待ちです。時間がない。緊迫の時。諦めて学内で……。

ドドドーッと凄まじい勢いで階段を駆け下りガラッピシャッと音が続きバタバタと走る音が徐々に遠のきます。きっと街道で車が途切れるのをイライラ足踏みして待っているのでしょう。そう、下宿は新発田街道を中に短大が見える位置で徒歩7、8分です。周りは畑と空地で視界良好ですから。

昼食は学生ホールで売店のパンやら持参のお弁当ですませるのです。

とにかく忙しかった!

その上、体育の松木先生は縄飛びの二重飛びを20回できなければ単位をやらないと。1回も飛べない私はもう必死に練習です。その甲斐あって1回目の試験では16回、2回目はなんと42回も飛べたのです。やればできるものですね。

夕食はだいたい皆がそろっています。何が供されたのか記憶にないのが不思議です。きっと話に夢中で関心がなかったのでしょう。小母さん一生懸命に作ってくれたのに、です。食後はテレビを観たり、雑談したり、部屋に戻って予習など思い思いに過ごし、夜が更けてもなかなか静まりません。不届き者は夜中に洗濯などする始末です。

小母さんはたまったものでもないですよね。寝起きの顔は寝足りない感アリアリで髪はボサボサ。おそらくお酒か睡眠薬の力を借りたのでは……。朝早く起きて朝食を作り、その後親戚の八百屋さんに勤めていたのですから、元気いっぱいの娘と6人の女子学生の相手をするのは、メンタル、フィジカル両面できつかったでしょう。

同居人は、階下はM子ちゃんと私。彼女は美術部の活動に一生懸命。私も才能も関心もないのに誘い込まれてしまいました。私の上はK子ちゃんで、*流行りの『ガラスの部屋』のラブロックに夢中でレコードをかけっぱなし。どれくらい続いたことか。巨人ファンのℍさんはラジオをお風呂にも持ち込んで賑やかに応援していました。Sちゃんは彼氏から毎日毎晩電話がかかってきて、電話の前の部屋にいた私は呼び出し係です(卒業後2人はめでたく結婚)。K子ちゃんとE子ちゃんは隣部屋ですが、いつもどちらかの部屋で何やら話し込んでいました(いまでも仲良しです)。私は部屋でひっそりとコーヒーを楽しんでいたのですが、香に誘われてくる人も。私の部屋は不運にもトイレの隣。壁が薄いので使用のたびにオルゴールを鳴らしたものです。曲は宮城道雄の「春の海」。私は親切なつもりでしたが、中の人は落ち着かなかったでしょう。それに優雅な筝曲を純粋に音楽として聴けなくしたかと懸念しています。

そんな日常の節目などに、小母さんがニッカウヰスキーのしびん形の大瓶とコーラをどんと出してくれたものです。小母さんは小柄でしたが太っ腹でした。ごちそうさまでした。

とにかく、元気で騒々しく多忙な日々でした。卒業前後は事がありすぎて記憶していません。どういう風に下宿を引きあげ、上京したのか……。

卒業して2、3年は東京就職組4人は心細さもあって度々会っていたものの、そのうちお互い忙しくなり、また新たな環境にも慣れて自然にそれぞれの道へ。

50歳を過ぎてゆとりができたので、年賀状に"会いたいね"と付け加えるようになって、ようやく再会が実現しました。それから、2、3回温泉旅行して10年ほど前には懐かしの海老ケ瀬を訪れました。

11月の新潟は天候が不安定ですよね。その日もあいにくの雨風まじりのお天気。下宿の跡地を探しても激しい変わり様と激しい雨風で見つかりません。次に大学へ。渡り廊下や新校舎のあたりをざっくりと見ただけで、早々に大形駅から月岡温泉へ向かいました。その後、何度か企画したものの都合がつかずにお流れに。そしてコロナ禍に突入です。

コロナ禍が収束したら、皆が歩けるうちに今度はゆっくり海老ケ瀬を見てまわり、新潟の中心街も味わい、心に刻みたいですね。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

五十嵐さん、ありがとうございました。何だか拝読していて「青春」という言葉を思い出しました。私は通学組でしたが、下宿を経験なさった方々は当時を懐かしく思い出しながら、読んでいただけたのでは、ないでしょうか。
*流行りの『ガラスの部屋』←皆さん、どのような音楽だと思われますか?ちょっと前にお笑い芸人「ヒロシ」さんの「ヒロシです。」のバックミュージックでまた再ヒットいたしました。

さて、来月以降のご寄稿予定の方々のご紹介でございます。

2月  14回生 安部(旧姓 田村)香織さん
3月  17回生 土屋(旧姓 塚原)芳美さん
4月  25回生 笠原(旧姓 橋本)文子さん
5月  25回生 傳川 紀子さん
6月 Alan Smollen先生
7月 佐々木 充先生(昭和51年~昭和55年ご勤務。そして「無有斎随筆」というブログでご近況を書かれているそうです)
8月 27回生 樋口(旧姓 解良)育美さん
9月 34回生で交渉依頼中
10月 6回生 成田(旧姓 田中)靖子さん
11月 12回生 糀(旧姓 西端)康子さん
12月 20回生 谷(旧姓 前田)ひろみさん
1月  岡村 仁一先生(平成9年~平成12年ご勤務)です。

きらりシュリンプ人に関しましてのご意見、ご要望、ご感想、この方のインタビューを聞きたい、ご紹介したいというのがございましたら、シュリンプクラブ広報事務局kentanshrimp@gmail.comまでお寄せ下さい。また、突然のインタビューを依頼するかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します。
では、また24日にお会い致しましょう。 シュリンプクラブ広報事務局 16回生 渡部敦子