始まりは、佐々木先生も記事の中で仰っていらっしゃるように、このホームページのメールアドレス宛にお問い合わせを頂いたことからでございました。
皆様、こんにちは、シュリンプクラブ広報事務局、16回生渡部(旧姓 渡辺)敦子でございます。県短英文科は1回生から43回生までいらっしゃり、その中でも同姓同名の方々はたくさんいらっしゃるのでは、ないでしょうか。平成9年に皆さんに配布された、あの赤い同窓会名簿には私と同じ音のお名前の方が9人いらっしゃいました。でも、そのお名前違いのおかげでこうやって、
佐々木充先生のことを知ることが出来て、良かったです。前置きが長くなってしまいました。それでは
佐々木充先生、よろしくお願いいたします。

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皆さんこんにちは。お久しぶりですね。これから県短時代の思い出をお話ししますが、その前に、皆さんとの出会いのきっかけとなる私の学生時代のことから話を始めましょう。

1. 学生時代

私は秋田県秋田市の出身で、高校は秋田工業高校の機械科である。高校では文芸部に入り、詩や小説や評論などを書いていた。いずれ真似事の域を脱するものではなかったが、将来は小説家か評論家になるか、少なくとも文学の研究者にはなろうという夢を持っていた。そのうち小林秀雄の文章に夢中になり、彼のような評論家になりたいと思った。同じような考えを持った友人がいて、しょっちゅう文学論や人生論を戦わせていた。当時の工業高校には頭はいいが親が貧乏で大学に行く余裕がない生徒が多かった。その一人に一緒に大学入試を受けてみないかと誘われ、その気になった。だが、文学系の大学の入試に受かるためには、工業高校の授業など聞いている暇はない。徹底してさぼったのが見つかって、親が高校に呼ばれたりした。当時は大学入試は一期校と二期校に分かれていて二回受けることが出来た。私は新潟大学人文学部(一期校)と秋田大学学芸学部(二期校)を受け、両方とも受かったが、文学をやるという目的に近い新潟大学に入ることにした。

当時の新大の人文学部は2年生になる時に志望する科を決めることになっていた。国文学もフランス文学もやりたかったが、国文学は特に勉強しなくても分かるだろうし、仏文学はこれからフランス語を勉強しても、ものになるか分からないという不安があり、とりあえず英文科に入ることにした。高校時代にペンギンブックスでD.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』やジェームズ・ジョイスの『ダブン市民』を読んでおり、また翻訳だったがエドガー・アラン・ポーの小説全集を読破していたし、シェイクスピアにも興味があってOxford U.P.から出ている一冊本の全集も持っていたので、英文学科を選んでそのどれかを専攻しようと考えていた。しかし、所属する科にとらわれず古今東西の作家や哲学者の文章を読みたいとも思っていたので、独・仏・西・中国語など、NHKラジオの語学講座はみんな聞いていた。また、将来大学院を受けるとき、ラテン語とギリシャ語が試験に出ると誤解していたので、それも独学で勉強していた。(語学はそれ以外にもいろいろ手を付けたが、これまで一体いくつやったろうかとある時寝ながら数えたら40ほどあって、自分でも驚いた。しかし、どう数えたのか、いま数えてみると20くらいしか思いつかない。)哲学にしろ文学にしろ、そこから人生の核心のようなものをつかみ取りたいと思っていた。大げさに言えば「人生について決定的な認識を得たい」と思っていたのである。その点、哲学がその近道のように思われたが、しかし、抽象的な把握では面白くない気がしたので、より体感的な認識を得るために文学を選んだのである。

当時大学は学生運動が盛んで、ストライキや学校封鎖ということがあり、あまり勉強はできなかった。もっとも、大学の英文科の授業自体、英文を読んで訳すだけのつまらない授業が多く、大学に在籍はしていたが、私の場合は文学は独学だと自分では思っている。

卒論にはシェイクスピアを選んで、フォルスタッフ論をやろうと思ったが、フォルスタッフが出てくる『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』を論ずるには、その前に位置する『リチャード二世』をやらなければならないと思い、それを論じていたら時間的余裕がなくなり、結局『リチャード二世』論で終わってしまった。

当時、新潟大学人文学部の上には大学院がなく、専攻科というのに一年いてアイルランドの詩人W.B.イェイツを読み、翌年東北大学の修士課程に入り、シェイクスピアより少し前のエリザベス朝詩人エドマンド・スペンサーを研究対象にした。彼の『妖精女王』は騎士物語の形式を取ってはいるが、エリザベス朝時代の様々な思想潮流が表現されているアレゴリー(寓話)形式の文学である。『ナルニア物語』の著者であり英文学者でもあるC.S.ルイスが、「スペンサーを読むことは精神が健康になることだ」というようなことを言っていたのも影響しただろう。

2. 県短時代の思い出

東北大学の修士課程を出ると同時に、婚約していた大学の一学年上の女性と結婚し、東北工業大学に英語科の助手として就職した。25歳だった。この大学の学生は、「受動態って知ってるだろう」と聞くと、「さあ」と言うようなレベルの学生が多く、事務員の女性は、この大学はいつつぶれるかわからないというようなことを言うので、不安になり、2年たって、県立新潟女子短大で英文科の教員を募集していると聞き、こちらに移ることにした。

県立女子短大は学生は当然女子ばかりなので、私のような若い男の教師は、異性として興味の対象になる傾向があったようである。中には、入学してみたら自分とあまり年の違わないように見える(実際には10歳くらい違うのであるが)教師がいてびっくりした、と言う学生もいた。若い女子学生は好奇心旺盛でいたずら好きである。私のような若い教師はからかいやすかったのであろう、私の研究室に来ては雑談で、「先生は女の人を見るときに最初にどこを見るんですか」と聞いたり、「私まだバスの中で痴漢されたことがないんです」などと返答に窮するようなことを言う学生もいた。英文科の学生の中にペルシャ風の美人がいて、時々バスに乗り合わせたが、ある時その学生が、すれ違いざまに、「先生、奥様とお幸せに」と突然言い放って、逃げるようにしてバスを降りて行ったのだが、こちらは何のことやら訳が分からず呆然とした。美人には自然に目が行ってしまうので、その視線に対して警告を発したのかもしれない。

授業では何を読んだろうか。あまり記憶がはっきりしないのだが、シェイクスピアでは『ロミオとジュリエット』を読んだ。また、ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』のうち「ジュスティーヌ」を読んだ。あとはロマン派やW.B.イェイツの英詩などは読んだ記憶がある。イェイツが自作を朗読した録音テープがあって、アイルランド訛りのrを強く響かせる英語で読んでいる。それをまねて教室で読んだら、学生にゲラゲラ笑われた。

ある時授業に行くと、教壇にネクタイが誕生日のプレゼントですと書いて置いてあった。そのようなものを貰うわけにはゆかないので、くれた学生には悪かったが、「もっとしかるべき人にあげなさい」と言ってそのままにしておいた。

学生にも色々変わったのがいた。夏休みにイギリスに語学留学に行って、それが終わって帰路イタリアに寄ったら、イタリア語が全く分からないのが悔しくて、そのままイタリアにとどまって、イタリア語の勉強をすることにしたという学生もいた。親が私に何とか帰国するように説得してくれと泣きついてきたが、その学生の意志は固く、イタリアも普通の人間が住んでいるのだからと言って親を慰めるしかなかった。

また当時すでに現在「腐女子」と呼ばれるような女子学生がいて、萩尾望都や竹宮恵子などの男同士が恋愛する少女漫画を読めと言って勧めてくれた。作者はいわゆる24年組と呼ばれる私と同じ年の女性漫画家たちである。少女漫画の表現の世界がずいぶん進歩していることをそれで知らされた。

授業中に誰かが小銭をじゃらじゃらさせていた。腹が立ったので、「授業中に金勘定するとはなんだ。教室から出て行け!」と言って叱ったが、だれも出て行く者がいない。「じゃあ俺が出て行く」と言って研究室に戻ったら、後から学生が「私たちは授業料を払っているんですから、授業をやってください」というので、腹立ちは収まらなかったが、仕方なく教室に戻って授業をした。

ある学生は雑誌のエッセイの懸賞に応募して入賞し、賞金10万円もらったと報告に来た者がいた。私は新大に移ってから、イェイツについての論文を書いて、東北大の英文科が出している青葉文学賞なるものを受賞したが、賞金は3万円で、学生の賞金より大分少ないのには、苦笑せざるをえなかった。

学生とは読書会もやった。英文科だからと言って英文学ばかり読んでいるのはよくないと言って、スタンダールの『赤と黒』だとか李白の漢詩だとか、こちらの好みに任せて読んだ。しかし、この読書会はあまり長続きしなかったような気がする。

また読書会は英文科の先生たちともやった。まずはスペンサーの『妖精女王』をやろうということになったのだが、これは、私が修士論文でそれについて書いたためであったろう。志鷹さんという広島大出の先生がいて、その人が、テクストに出てくる単語をいちいちOED(Oxford English Dictionary)で調べてきて、この単語の意味はOEDのどこそこにあるとかいちいち指摘してゆくので、こちらもそれに同調せざるを得ず、大部な辞書を引っ張り出し、ひっくり返しては単語の意味を調べてゆくということをやった。この時、学問というのは知力も必要だが体力も必要だということを痛感した。(もっとも今はOEDのCDROMもあり、コンピューターがあれば体力がなくても調べられる。)そのほかに、ラテン語で書かれたウェルギリウスの『アエネーイス』やイタリア語のダンテの『神曲』の読書会もやった。その「地獄篇」を読んでいる途中で私は新大に移ったので、いまだに地獄でうろうろしているような気がする。

また、大学と大学院の同級生であった生田省悟君を県短に呼んだのは私である。生田君はスポーツが得意で、硬式テニスを教えてもらった。県短の校庭にはテニスコートがあるのになぜか誰も使っていなかったので、そこを借りてやった。物事にすぐはまるたちなので、うまくもないテニスを一生懸命にやったことが原因で椎間板ヘルニアの手術をする羽目になり(1998年)、以来用心してテニスはしていない。

当時はインターネットというものもまだなかったので、今なら古典的な英文学の電子版テクストを無料で見られたり、個人文学全集を300円程度で手に入れたりすることが出来るのだが、当時は洋書を手に入れるのに、月に一度やってくる東京の本屋のセールスマンに頼むか、東京の洋書屋に買いに行くかしなければならなかった。県短の研究費は少なく、一年に15万円くらいであったので、それではほとんど何も買えず、本はほとんど自費で買っていた。東京の丸善のセールスマンは新大の哲学科を出た悪い奴で、支払いは後でいいからどんどん買ってくださいというので、その口車に乗せられて買ってゆくと、丸善の借金はすぐ百万円くらいに膨れ上がった。妻にはボーナスが全然残らないと言って泣かれたこともある。のち、借金が二百万円くらいになったとき、いくら何でもこれではまずいと思い、文部省(当時)に科研費補助金を申請し何とか借金をなくすことが出来たが、これは新潟大学に移ってからの話である。

時々研究室にやってくる学生たちと文学の話をした。私は文学に関してはちょっと特殊な考え方をしており、個人的な文体を持たない文章は文学ではないと思っていた。学生たちに、個人の文体というものが分かると、その文章は生きた文章となって、そこから〈声〉のようなものが聞こえて来て、著者の精神がありありと現前するような気がするものなんだ、というようなことを学生たちに熱を込めて話していると、一人が突然、「あ、みんなうっとりしてる」という声を上げた。それでみんなハッとして、夢からさめたような顔をした。

昭和52年、勤め始めてから2年目だが、英文科で弥彦にいちご狩りのハイキングに行ったことがある。ここに挙げた写真が県短時代に関してわずかに残っている写真の一枚である。今あらためて見てみると、皆さんプルーストの「花咲く乙女たち」という言葉がよく似合う可憐な乙女たちである。(最前列右から二人目が私である。)

県短で過ごした4年間は、今になってみると、楽しく懐かしい思い出である。5年目に新潟大学に移ることになり、2年生に最後の授業の時、君たちは今年で卒業だが、私も県短の教師は今年で卒業することにした、と言って、研究室に戻ると、後からぞろぞろと学生たちが泣きながらやってきて、「先生どこにいってしまうんですか」と聞くので、「新潟大学だよ」と答えると「なあんだ」と、拍子抜けしたような、安心したような顔をして帰って行った。女子学生に泣かれたのは46年の教師人生のうち、後にも先にもこの時だけである。

有志の学生たちが、お別れの記念にと言って、ポール・シャバの《九月の朝》という額縁入りの複製画を贈ってくれた。裸の少女が水浴びをしている有名な絵である。ははあ、また例のからかいかと思って、「これを見て君たちのことを思い出せばいいんだね」とちょっと意地悪いことを言ったら、「だからやめようと言ったじゃない」とか、言い合っている。この絵は清新な印象を与える絵で、別にいやらしくはないので、ありがたく頂戴しておいた。しかし、いつも部屋にかけておくのもはばかられるので、くれた学生には悪いが、実際に部屋に掛けておいたことはない。

後に、新潟大学で一般教養の授業をしていると、女性の社会人学生が教壇のところにやってきて、「先生、私、昔、県短で先生に教えていただいた者です。」と言われ、びっくりした。確かによく見ると県短で教えたことのある学生である。今は教育学部の大学院で書道を勉強しているとのことであった。

また、県短で学生だったという人から突然メールが来たこともある。文面から、時々研究室に来ていた学生だったことが分かり、こっちの研究室にも遊びに来なさいと返事を出したが、なぜかそれっきり返事は来なかった。

今回この文章を書いたのは、「ミニみゅーず」の編集をしている渡部(旧姓渡辺)敦子さんが、私が県短にいた時に時々研究室に話しに来てくれた渡辺敦子さんではないかと思って問い合わせたのがきっかけである。その渡辺さんは私の文体論をよく理解してくれ、私が新潟大学に移ってからも研究室に訪ねてきて、白川静関連の本などを置いて行ってくれた人である。その渡辺さんではないかと懐かしくなってメールをすると、誤解であることが分かった。渡辺敦子さんはほかにも数人いるらしい。私の知っている渡辺敦子さんからは、平成九年に年賀状が来て以来、音信不通である。

佐々木先生と11回生さんの学級写真

私が27歳で県短に就職したとき、学生のほうは18~20歳前後だろう。ということは現在私は73歳だが、学生のほうも還暦を過ぎたあたりである。いま会ったとしても分かるだろうか。私自身については、県短当時と中身はあまり変わっているような気はしない。外観は、少し痩せたが髪の毛は今でもあるし、あまり変わっていない(希望的観測)。ただ、口髭を生やしたのと、白髪と皺が増えたという違いはある。写真を見て私だと分かりますか。

ああ、県短時代が懐かしい。この文章を読んで当時を思い出してくれた人は、次のアドレス(mchrsasaki@gmail.com)にメールを下さい。旧交を温めましょう。同窓会(同級会)をするというのもいいですね。

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佐々木先生、ありがとうございました。本当に何がきっかけになるかは分からないものですね。佐々木先生の記事にも書かれていますように、何回か、このホームページ、そして、かざし会ホームページや、会報にお知らせをしているのですが、皆様が同窓会、もしくはミニミニ同級会をなさる時、皆様から納入していただいているかざし会費より、1万円の補助が出ます。(英文会長宛に申請して下さい。)まだまだ、コロナ禍が収まらず、大きな会は開催が出来ないかもしれませんが、ごくごく内輪の集まりにも、手助けをしたいという主旨でございますので、佐々木先生の仰るように、旧交を温めて下さい。

さて、来月以降のご寄稿予定の方々のご紹介でございます。

8月 27回生 樋口(旧姓 解良)育美さん
9月 34回生で交渉依頼中
10月 25回生 笠原(旧姓 橋本)文子さん
11月 12回生 糀(旧姓 西端)康子さん
12月 20回生 谷(旧姓 前田)ひろみさん
1月  岡村 仁一先生(1997年4月~2000年3月ご勤務)
2月  28回生 大野(旧姓 太田)安記さん
3月   8回生 広川(旧姓 大野)純子さん
4月 22回生さんからお願いします。(依頼中です)
5月 生田省吾先生(1978年10月~1981年3月ご勤務)です。お楽しみに。
↑6月以降は毎月24日更新のホームページの内容検討中でございます。(「私の趣味・仕事」と地域を紹介する「特派員便り」は随時、絶賛募集中ですので、こちらもよろしくお願いいたします。)
きらりシュリンプ人に関しましてのご意見、ご要望、ご感想、この方のインタビューを聞きたい、ご紹介したいというのがございましたら、シュリンプクラブ広報事務局kentanshrimp@gmail.comまでお寄せ下さい。また、突然のインタビューを依頼するかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します。
では、また24日にお会い致しましょう。 シュリンプクラブ広報事務局 16回生 渡部敦子