皆様、こんにちは。いよいよ、平成29年(2017年)11月から始まりました毎月更新の英文科縁の方々をご紹介するこのコーナーも今回で、最終回を迎えました。今まで、ご寄稿をご快諾下さった68人の皆様、そして、この方の記事を読んでみたいとご紹介なさって下さった方々、本当にありがとうございました。

さて、大トリを務めて下さいますのは、佐々木充先生からのご紹介の生田省悟先生です。無理やり、お願いした感がございますが、『ごり押し』して良かった(この言葉は金沢の「ごり」という魚を取るところから来ているそうですね。)と思いました。それでは、生田先生、よろしくお願いいたします。

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用務先の世界
 複合遺産ティカル(グアテマラ)にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みなさん、かつて3年半、お世話になった生田です。去年の夏、渡部敦子さんから丁重というか有無を言わさずというか、「きらりシュリンプ人」への寄稿依頼をいただきました。そんな資格があるはずもないし、自分が「きらり」?とも思うのですが、みなさんへのご恩返しのつもりで一念発起です。それにしてもバイパスから見える「海老ケ瀬の学び舎」は変わりましたね。あのグラウンドー-運動会の障害物競走で快走一番のはずが、最後の最後に縄とびの縄をほどくのに四苦八苦――もどうなったのやら。かく言う私、あのボサボサ髪は今いずこ。

学生のころ

昆虫や小動物が好きで、幼いころは実物と遊んだり、池の中を描いた本を飽かず眺めたりしたものです。なのに、なぜか大学では文学科に入り、シェイクスピアの名前しか知らないイギリス文学を何となく選んでしまいました。はじめて聞く作家の文章に面食らったり英語学の講義に退屈したりしながら、ジョン・ダンという17世紀の詩人を素材とした卒論をでっち上げて卒業に漕ぎつけたわけです。でも、何人かの先生の生態を観察しているうちに、この人たちはいかに自由であることかと思ったのが原因で、単純に大学院行きを決めてしまいました。そこで、卒業後に1年間専攻科へ行ってから、同期の佐々木充君と同じ大学院に進学。でも、フィアンセに見守られた彼のことはいざ知らず、私の〈何となく大学院〉は難しいテクストと格闘したり、ダンに関する修士論文で行きづまったりしたほかは、たまに日帰り登山を楽しむ程度の平凡なものでした。

県短の日々

修士課程を終えて就職した先は私立大学の工学部でしたが、職場環境は自由気ままどころの話ではありません。授業で疲れきってしまうだけでなく、雑用や複雑怪奇な人間関係にウンザリ。ごく少数の反体制派と仲良くなれたのだけが救いでした。この先どうなるのかと不安になってきたおりもおり、一足先に県短に行っていた佐々木君から話があったので即断です。郷里に戻るという安心感もありました。そして1977年10月、平野絹枝さんとともに着任、それぞれが平野日出征さんと志鷹英行さんの後釜でした(その平野さんと志鷹さんとは杉山繁男先生の退職記念の集いでお会いし、宴が果ててからもなお、親しくお話しさせていただきました)。

県短では緊張と試練の毎日。とくに必修科目の英文法が前任からの引き継ぎだとは聞いていたものの、教科書がこともあろうに伝統文法の名著Otto Jespersen, Essentials of English Grammar だったとは。レベルの高さにうろたえ、しどろもどろの連続で、教室にはシラーッとした雰囲気が漂う始末。みなさんの失望感は相当なものだったでしょうし、不毛な時間を強要した張本人も落ち込みました。今さらながら申しわけない思いで一杯です。

それでもなお、時間を共有してくれたみなさんのことは心に残っています。趣味が散歩だと話したら、なぜか大喜びしてくれた人、場を仕切るのが名人級の人、場ちがいなことを口走ると、「そんなこと言っちゃダメ」とたしなめてくれた人、絵本作家M.H. エッツに関する論文で受賞した人、後に金沢まで訪ねてきてくれた人・・・。それに有志のみなさんが卒業記念に贈ってくれた置き時計、今でも重宝しています。

ここで打ち明け話をするなら、実は県短に勤めてしばらくすると、モヤモヤとした感じに襲われるようになりました。その原因をつらつら考えるうちに、すでに而立(じりつ)のときを迎えていながら、私には〈核〉、つまり心から楽しいと言える研究対象がないことに思いあたったのです。要するに、すべてを〈何となく〉ですませてきたことへのダメ出しでした。

かといって、モヤモヤ感が消えるわけもなく、相変わらずの精神状態でいたときに偶然、17世紀の放蕩貴族が書いた詩の1行が目に飛び込んできました。“Reason, an Ignis fatuus of the mind” という1行です。Ignis fatuus とは人を惑わす「鬼火」や「狐火」のたぐいですが、「理性」を「鬼火」と決めつける理屈と、その理屈を成立させる要因・背景がどうにも気になってしかたなかったのです。辞書をよく読んでみると、この語や類語の引用例が17世紀に集中していることも判明しました。なぜ?と、興味が湧かないはずがありません。手探り状態で調べてゆくうちに、この、捉えどころのない「鬼火」が私をどこかに導いてくれるかも、と妙な予感さえしてきました。〈何となく〉はもうおしまい、一から出直しだと決意した瞬間です。そして金沢大学教養部の教員公募にチャレンジ。あとさきのことも考えず、身勝手なふるまいでしたので、連れ合いにはずいぶんと恨まれもしましたが、新潟からはそう遠くはないし、観光地でしばらく暮らすのも悪くないと説得に努めたものです。

金沢暮らしの顛末

縁もゆかりもない金沢、1981年4月に「お城の大学」通いが始まりました。共同研究室で「桜の雲に包まれた美しい街ですね」と殊勝なことを口にしたとたん、居合わせた名誉教授から「君、梅雨どきの良さがわからなきゃ、金沢を知ったことにはならんよ」のひとこと。いやはや参りました。とはいえ仕事はもっぱら授業だけ、研究費もそれなりだったのは幸いでした。また、住まいは犀川左岸沿いの高台にあって、歴代加賀藩主や室生犀星、鈴木大拙などが眠る野田山も目と鼻の先。散歩にはうってつけで、イワナシという可憐な花とはじめて出会ったのもこの場所です。

「鬼火」のことは、出没する時期、分野、文脈、書き手による変異・特性など、今思えば生物観察の初歩とそっくりなやり方で取り組んでゆきました。「鬼火」と関連する事項が視野に入ってくるのも当然のなりゆきで、近代博物誌/自然誌、人間と自然との付き合い方に関する文献漁りという、文系に進んだ生きもの好きにはピッタリの方向が見えてきたのです。イギリスだけでなく、たとえば日本などの状況も眺めたら、もっと楽しいにちがいないとも思えました。

ところが、世の中そんなに甘くはなく、やがて郊外へのキャンパス移転を皮切りに、(他の国立大学と同じく)教養部廃止、法人化など、無理難題を抱えこむ時代が来てしまったのです。私は法学部に追いやられたものの、どうせお荷物扱い、これ幸いと〈すみっコぐらし〉を決めこんで、文献漁りの時間確保に努めました。ただ、法律の勉強がどうしても肌に合わない学生に逃げ道を工夫するなど、多少の責任は果たしたつもりです。それが裏目に出たのかどうか、いきなり学部の世話係を押しつけられたと思ったら、お次は文系全体の雑用係に配置換え。そんなこんなで「school の語源は〈ひま〉だよ、ひまっ」とグチをこぼしつつ、ようやくお役ご免の日を迎えることができました。学生時代に思い描いて憧れた〈自由気まま〉な生き方というのは所詮、ただの妄想でしかなかったようです。

越佐昆虫同好会報から

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日このごろ

2014年春、金沢の街(連れ合いから「ゆっくり歩いたことないでしょ」との突っ込みあり)はもちろん、能登や白山、それに大好きだった五箇山を良き思い出として新潟に戻りました。ブルーな〈マンデー毎日〉から〈サンデー毎日〉への変化にもすぐに順応です。生活にメリハリをつけてくれるのが30年ぶりのテニス、そして昆虫(同好会にも入りました)。ラケットと捕虫網を交互に振り回すといった感じで、老眼ゆえの空振りもあります。頭の老化対策と称して、ずっと読まずにいた本のページをめくってもいます。何度も辞書のご厄介になるのは悔しいものの、論文の準備をするでもなし、気の向くままにというのが一番です。

論文と言えば、去年と今年の2年連続でちょっとしたことがありました。以前にも経験してはいましたが、どこかに書いたものが大学の入試問題(国語)で利用されたというのです。拙い文章に対して、形式はどうであれ、反応があったのはありがたいことでした。というのも、 県短で 「鬼火」と遭遇したころから心がけてきたことがあって、それは、どんなに素朴だろうと〈自分のことばで語る〉というものです。大した仕事なんぞできっこないのだから、せめて借りものの理論や用語に頼るのは止そう、という居直りにほかなりません。その意味で入試問題の件は、ささやかな努力が少しは理解されたことの証しであるように思われたわけです。あちこち迷い続けたものの、行き着く先は結局、県短=スタート地点の〈自分のことばで語る〉だったという気がしてならない昨今ではあります。

こうして、とりとめもなく書いていると、かつてのことがよみがえってきます。そして何よりも、みなさんがご自身のことを、そして今という時代のことをご自身のことばでどう語ってくださるのか――それを伺う機会が得られたら、という思いが募るばかりです。

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生田先生、ありがとうございました。当時の県短のことを彷彿させられました。1997年(平成9年)に皆さんに配布されたあの赤いかざし会会員名簿を見ながら、原稿依頼のお電話をするたびに、何度となく「生田先生はどうしていらっしゃるのかしら。」というお声を聞き、生田先生はどのような方なんだろうと、ずっと思っておりました。今回のご寄稿で少年のような心を持つ先生でいらっしゃるから、もと少女達の思い出の中に残っていらっしゃるんだろうなぁと思いました。

皆様いかがでしたでしょうか。英文科出身の方々の絆を深めるという思いから始まったこの「きらりシュリンプ人」でございますが、来月からは、もう更新もございません。淋しい限りではありますが「終わり良ければ総て良し」(シェイクスピア)で生田先生が素敵に締めくくって下さいました。今まで、ご愛読ありがとうございました。英文16回生渡部敦子